死んでるからだ
祖母が93歳で亡くなった。
お葬式は自宅でやった。
徳のないオッサマ(お寺の住職)がごねたが、
自宅でやることにした。
泣かないと思っていた自分が、
それでもウッとくる瞬間があった。
お通夜の前にユカンをしている時だった。
ウチの田舎では、
ユカンをする人たちは一本の藁を左前にかける。
意味を尋ねたら、それは僧侶の見立てであり
左前は常とは違う、ということを表しているそうだ。
「湯灌」といっても形式だけで、
アルコールの浸ったバカでかい綿花で遺体を拭いていくのだ。
そして白い手甲脚絆を着けたり、六文銭の頭陀袋をかけたり、
つまり死装束にするのだ。
僕は手甲を着けていたのだが、
ドライアイスで遺体がカチンコチンになっているので、
着けにくい。
脚絆を着けていた周りの人たちもやりにくそうにしている。
中指に紐を通そうとするのだけど、なかなか通らない。
通らないな、と思っていたその時、
なにかグッとくるものがあった。
たぶん、原始感覚みたいなものだと思う。
おそらく最近は自分が、
生きているカラダを触る機会が多くなったから、だと思う。
指としては、当然、生体を触っているつもりで、
実は屍体を触っているという事実。
その感覚の「サ」に戸惑ったのだと思う。
ああ、祖母は死んでいるんだ、と思った。
死んでいるカラダを触っても
ツボは何も応えてはくれなかったのだ。
2009年03月05日 店長の「鍼灸と老人問題」